ミュージカル座「野の花」に関してだらだらと
約半年ぶりに舞台を観た。
久しぶりの観劇に思いが溢れてしまったので、
感想と共にだらだらと書こうと思う。
だらだらと書いていたら予想以上に長文になってしまったため、冒頭に要約を入れておく。
・戦争ものはしんどいからあまり観たくない。
・構成や演出が良かった。
・「花はどこへ行った」がお気に入りで何度も聴きたいので是非CDを売ってほしい。
それかせめて訳詞をどこかで見られるようにしてほしい。
・ハンスがしんどい。
・舞台って最高。
以上、要約終わり。
タイトルの作品は第二次世界大戦時のドイツを描いたものだが、
まず私が戦争もの舞台に抱いている思いを先に書く。
私の推しは今まで3回戦争ものの作品に出演している。
主演であったり脇役であったり、様々だ。
3年間で3回出演していて、どれもほぼ全通している。
特攻隊が2回、真珠湾攻撃が1回。
仲間と共に死ねず生き抜いてしまったり、卑怯者だと詰られながら基地に何度も帰り、最後の親孝行として二階級特進後の遺族年金的なものを計算して死にに行ったり、今から死にに行く仲間の健康を守ったり。
どれももう悲惨な役だった。
10数回、推しが同じ内容で苦しむ姿を見続け、千秋楽公演でようやく解放される。
正直観ているのが辛い。
だったら虚無舞台と呼ばれる違う意味で悲惨な作品に出たほうがマシかもしれない。
少なくとも虚無舞台で推しの生死に振り回されることはない。
なぜならつまらなさすぎて推ししか観ず、内容は二の次だからだ。
こんな思いで生き延びるなら、あのとき死んだほうが良かったかもしれない。
なんでもいいから生き延びてほしい。
この先どんな気持ちで生きていくのか。
そんなことを観劇中、号泣しながらずっと考えているのは非常に疲れる。
平和を考えるきっかけになるし、当時生きていた人たちのことを知るきっかけにもなる。
それは重々理解しているが、1回観ただけでメッセージは十分すぎるほど伝わる。
推しの演じる役がただ笑顔で生きられる世界を、公演期間はひたすら望み、そして現実世界でも推しが理不尽に命を落とすことがないようにと望む。
これで十分ではないだろうか。
だから、3回目の戦争もの舞台終演後、推しに「次はどんな作品がいい?」と聞かれたとき、迷わず「戦争もの以外で」と答えた。
フィクションの世界であろうと、国の命令そのままに死んでいくのを観るのはもうごめんである。
というわけで、私は戦争ものが大の苦手である。
じゃあ全通しなければいいじゃんと言われるかもしれないが、それはそれこれはこれ。
推しの姿は1秒たりとも見逃したくないし、取れるチケットは全部買うものである。
ただ、まあ3作品通過して学んだのは、1公演観てどの程度体力を消耗するか調べてから複数のチケットを買うべきということだった。
しかし、それを生かす場はしばらく先になりそうだ。
長々と書いてしまったが、ここから「野の花」関連の話に移る。
今回の作品に推しは出ていなかった。
少し気になる俳優がいて、その人(以後「お目当て」表記)目当てでチケットを買った。
ホームページのあらすじで戦争ものだということはわかっていたが、約半年ぶりの舞台であり、状況によっては今年最後の舞台になりかねず、またお目当てはフリー俳優ということもあって支援の意味も込めてお目当ての日程をすべて予約した。
事務所の俳優ならまだしも、このご時世フリー俳優が役者をやめてしまわないか心配で心配で仕方なかった。
第二次世界大戦時のドイツという単語で大体察すると思うが、ホロコーストの話である(私の知識レベルを書いておくと、アンネの日記、ハンナのかばん、その他写真集等を数冊読んだ程度である)。
私が今まで観てきた作品はすべて日本の軍人がメインだったが、今回は外国の一般人がメイン。
初めてのジャンルに少し楽しみも覚えていた。
友人を誘い、久々に美容院で髪を染め、ネイルを新調し、当日に備える。
そうして、中目黒のキンケロシアターに乗り込んだ。
公演後のツイートを抜粋すると、「死にたい」「殺してくれ」「成仏させてくれ」「地獄」「この世界で生きていくのが辛い」である。
生死が笑いものにならない作品の感想として不謹慎かもしれないが、率直な感想なので今は見逃してほしい。
ざっくりとストーリーを書いておく。
ネタバレが嫌な人はここでさようならだ。
以後、劇中の台詞を引用する箇所があるが、当然台本が手元にあるわけではないのでニュアンスとして捉えてもらえるとありがたい。
ドイツ人のリーザとユダヤ人のルイーゼは家族ぐるみで親しくしていた。
ルイーゼは学校に通えなくなり、リーザの父の別荘に家族で隠れ住む。
リーザの父はユダヤ人迫害に反対していたが、大学教授の地位や世間体、家族の安全のためにナチに入党。
リーザの兄ハンスはまだ若く、ヒトラーに洗脳され青少年団に入り、ユダヤ人を敵対視していく(ユダヤ人の友人がいるにも関わらず)。
リーザとルイーゼは隠れて会っていたが、ユダヤ人迫害が強まり、ルイーゼの家族はポーランドへ逃げ消息を絶つ。
ハンスはソ連へ出征したが、心を病み入院し、自殺。
ハンスを失ったことによりリーザの両親はひどく落ち込み、ほぼ家庭崩壊。
リーザは党員の夫を持っていたが、生まれつき足が悪い上にユダヤ人の肩を持つ彼女を疎み、夫婦仲は冷え切っていた。
遂にリーザはルイーゼを探しにポーランドに旅立ち、ゲットーで死を待つ彼女と再会する。
彼女はユダヤ人の夫と2人の子どもをもうけており、子どもの未来をリーザに託して息を引き取った。
現代パートと戦時パートに分かれており、老いたリーザが孫のイーダにルイーゼとの思い出を話すという作りになっている。
ちなみに、イーダはずっとリーザの孫として育てられていたようだが、本当はルイーゼの孫である。
ざっくり書くと、こんな感じの救われない話である。
ホロコーストに救いを求めるほうが間違っているのだが。
ルイーゼの子が希望といえば希望なのだが、ほかの絶望要素があまりに重すぎて2人の子どもだけでは到底上書きしきれなかった。
お目当てについて書く前に、作品全体の感想を書いておく。
お目当て関連は今以上に文が暴走して読みにくいだろうから。
リーザとルイーゼが手を繋いで森を歩くシーンが一番心穏やかだった。
女の子たちが仲良くしているのが大好きなので、心拍数的には穏やかとは程遠かったが。
この話を最大限不謹慎に茶化すとしたら、百合に割り込む男は消えろ、だろう。
チョビ髭生やした独裁者さえいなければ、2人の幸せが一生続いたというのに。
クララとインゲのいじめっ子コンビは、まあ嫌なやつである。
だが、球技大会でクラスが勝利したとき、約束通りリーザと同じように足を引きずって行進したのは意外だった。
弱いものいじめが日常と化している典型的ないじめっ子だが、根は悪くないのかもしれない。
だからといっていじめを良しとするわけでもないが。
作品の流れとして好きだと思ったのが、リーザは子を堕胎し、ルイーゼは2人の子と孫を残したことだ。
リーザは劇中、ナチス党員の夫の子を妊娠するが、生まれつきの障害が遺伝すると党に判断され、無理矢理中絶させられた。
妊娠発覚時には「ドイツが理想とする典型的な北欧系ゲルマンの家族ができた」と個を無視して喜ばれたというのに。
リーザはその後、自分の子を産むことはなかった。
一方、ドイツから迫害されたユダヤ人のルイーゼは子孫を残した。
ルイーゼは最期に「私はナチスに殺されずに死ぬ。私は勝った」と言うが、子孫繁栄の面でもナチスに勝った。
優れた血が劣った血に混ざり滅びることを恐れ、劣った血を消そうとした結果、劣った血が残ったのだ(劇中の言葉や思想を用いているだけで、私個人として血に優劣があるとは思っていない)。
素晴らしい皮肉だろう。
あと、ルイーゼの孫であるイーダは、性格がリーザに似ていて引っ込み思案なのも良い。
劇中、ハンスが「ユダヤ人は僕たちとは考え方が違う、おかしい人種なんだ」と言うが、イーダはユダヤ人(父親の人種が不明だが)であるにも関わらず、ドイツ人のリーザとよく似ている。
血や人種はアイデンティティの一部だが、その人をその人たらしめるすべてではないということだろう。
ほかに印象に残ったシーンは、ドイツ軍の侵攻が始まったあたり。
オーストリアが併合された。
その一言で初日は泣いた。
個人的にオーストリアが大好きで大好きでたまらないから、ついにこの日が来てしまったのだと、絶望に落ち込んだ。
オーストリアは被害者だという見方をする人がいるが、この戦争においてオーストリアは加害者だろう。
無理矢理併合されたわけではない。
大好きな国が悪の道に走るのを眺めているのが辛かった。
そしてポーランドへ侵攻した、という台詞。
周りの大国に切り分けられ続けたポーランドの苦難がまた始まったと、歴史書をなぞっているかのような苦々しい気持ちになった。
そして、最後の「花はどこへ行った」の歌。
恥ずかしながらこの曲を知らず、後で調べたところ反戦歌だと知った。
ミュージカル座の名にふさわしく歌がとても上手で、涙を誘った。
号泣しながら聴いていたせいで歌詞がうろ覚えだ。
日本で一般的に知られているのは、おおたたかしさんの訳詞だと思うが、微妙に歌詞が違う。
プログラムを確認すると、この作品での訳者は高野絹也さんらしい。
CDかDVDがとても欲しい一曲だ。
何度も繰り返し聴きたい。
せめて高野さんの歌詞を知りたい。
もし劇団関係者が奇跡的にこのブログに辿り着くことがあれば、検討していただけたらと思う。
おおたたかしさんの訳詞にはなかった「いつの日にか気づくでしょう(かなりうろ覚え)」がとても気に入っている。
話は変わり、少しリーザたちへの批判。
ユダヤ人への迫害が始まった頃から、追放されるときまでリーザや父は「いつかわかりあえる」「どうかわかってほしい」と言っていた。
どうして弱者相手に理解するコストを払わせようとするのか。
「私たちはユダヤ人を迫害するドイツ人とは違う」と言いたいのはよくわかる。
敵だと誤解されたくないのもわかる。
きっと私がリーザたちの立場になっても同じことを思う。
でも、わかってほしいと言う前に同胞を説得してユダヤ人のことをわからせる方が先だろう。
「私たちは違う」という思いが先行しているように感じた。
そして、若干批判があるような、ないような感想。
父は入党し、リーザは党員と結婚する。
客席から観ていた私はありえないと思った。
まあ、守らなくてはいけないものがたくさんあるから、入党はせざるを得なかったかもしれない。
だが、既にルイーゼが居場所を失っているというのにその原因と結婚するのか、と思ってしまった。
ユダヤ人の扱いで夫と衝突するたびに、あほではと思ってしまった。
でも私がそう思うのは、この先の結末を知っており、かつ第三者だからだ。
ルイーゼは結婚後、ユダヤ人絡みだと夫が豹変することを知らなかった。
ドイツの雰囲気がより深刻になることを知らなかった。
じわじわと浸食してきた当時は、きっとこれ以上酷くなるとは思っていなかっただろうし、もしかしたら国際世論に負けてユダヤ人迫害はなくなるが、このままナチスがドイツを強くしてくれると希望を抱いてすらいたのかもしれない。
今だからその選択は誤りだと言えるが、当時の人間だって自分の選択が正しいと思っていたのだろう。
父が「ヒトラーが演説し始めた頃はみんなありえないと言っていた。その聴衆は今もここにいる」と言った。
父もその1人だったが、入党し、最終的に大学で「書を捨て、総統のために戦おう」と学生に教えるようになる。
声を上げなかった人、ナチスに迎合すると見せかけて内側から変えようとした人、みんなその1人だった。
「いつまでも続くはずがない」「国際社会で生きるためにこんなことは続けられない」「党内で良い未来のために意見を出す」父はそう言ったが、最悪の結末は逃れられなかった。
茹で蛙のように、少しずつおかしなことが増え、どうにかなるだろうと考えているうちに後戻りできなくなってしまった。
入党して意見を変えようとしたものの「悪魔の手を握ってしまった」のだ。
みんな考えが甘いが、傍目八目で偉そうに批判する私も考えなしのあほである。
全体的な感想はここまでにして、お目当てについて語る。
今まで以上に感情的で読みにくい文章になっていることを予め謝罪しておく。
私のお目当てはリーザの兄、ハンス役だった。
終始とても優しく、誰からも好かれる性格をしており、小児麻痺で足の悪いリーザを思いやる兄。
初登場時からにこにこしていて、客席で私もにこにこしてしまった。
ところが、若さ故の浅慮でヒトラーに傾倒してしまう。
爽やかに「ハイル・ヒトラー!」と両親に挨拶した時点で嫌な予感しかしなかった。
ナチスやヒトラーは悪で、ヒトラーの境遇がどんなに恵まれなかったとしても、情状酌量の余地はない。
そういう価値観を持っている状態で観劇しているのだから、もうこの時点で死にたい。
なんとかナチに反対している父が説得してくれないかと思っていたが、時代に従うようにヒトラーを神聖化していく。
生き生きとヒトラーの演説を語る姿に吐き気すら覚えた。
その後海外へ派遣されてからは、駐屯地にいるばかりで何も起こらない、外国にいるとドイツをより誇りに思うなどと手紙を書く。
そして、戦争が始まりソ連に親衛隊として出向く。
ソ連に派遣されたところで休憩に入り、初日の休憩中、私は友人と話をしていた。
「これで戦死したら後味最悪だね」と。
まさかこの想像を上回る最悪が起こるとは思わなかった。
ソ連で冬将軍に惨敗して帰国するのだが、なんと現地でユダヤ人の虐殺をしていた。
といっても自主的なものではなく、命令だったが、ハンスの心を壊すには十分すぎた。
ソ連の寒さと虐殺したユダヤ人が心を病ませ、家に帰ってきたはいいものの病院送りとなり、自殺して舞台から去った。
「寒い、寒い」と仲間の死や極寒を思い出し、「殺さないでくれ」と自らの手で殺したユダヤ人に怯える演技に私はずっと泣いていた。
ハンスは紛れもない加害者だ。
若さ故の無知につけ込まれたとは言え、ユダヤ人迫害の流れに与していたのは事実である。
父が「ユダヤ人も人間だ」と説得を試みたにも関わらず、耳を貸そうともしなかった。
強い指導者、強いドイツ帝国への希望、同調圧力、様々な要因があって傾倒していったのは理解できる。
だが、友人でもあるユダヤ人の居場所を自分の意思で奪っていった。
ルイーゼたちからしてみたらどう見ても加害者で、復讐すべき相手だ。
だが、PTSDにかかって帰国して自殺。
途端に戦争の被害者になる。
ずるいと思ってしまった。
お目当てが演じている、というだけで結構贔屓目に見ていたのだ。
若いから仕方ない、判断力がない、と。
そして心を病んだ彼に涙して。
公演が終わり、舞台から一歩離れれば、糾弾されるべき加害者であることに気づいた。
リーザとルイーゼの幸せな未来を奪う片棒を担いだ、憎い存在だった。
なのに被害者という属性も併せ持っている。
反省して許されるものでもないが、誰にも謝らずに同情される立場になって去っていってしまった。
きっと、憧れを抱いていた戦場は想像以上に過酷で、人を殺すというのがどういうことか、ユダヤ人迫害の果てがどこにいきつくのか、気づいたのだろう。
「箒でゴミを掃くように」と笑ってユダヤ人を滅ぼす未来を語ったその次の出番で「殺さないでくれ」とうずくまる。
ソ連の支配層はユダヤ人だからそこを一掃する、と今後の計画を希望溢れる顔で語ったその次の出番で家族の名を泣き叫ぶ。
これが意図的なのかどうかわからないが、望んだ未来を掴むための行為がそっくりそのまま跳ね返ってくるのがよくわかる演出だった。
3回目の観劇でようやく気づいた。
私は性格が酷く悪いから、もしその場にいたユダヤ人だったとしたら、きっとハンスに「ユダヤ人をゴミ箱に捨てたかったんでしょ、実際にやってみてどうだった?」と聞いていたかもしれない。
ただ、なんというか、後味が本当に酷い。
ハンスだって戦争に振り回され未来を奪われた若者の1人なのだ。
命の重みはユダヤ人と変わらない。
わかってはいるが、詰りたい。
迫害に加担しなければ、出征して戦争に心を殺された被害者として私も堂々と同情できた。
傾倒していないが命令に逆らえずユダヤ人を虐殺してしまった、ならまだ同情の余地があった。
きっと私はお目当ての役を悪者にしたくないのだと思う。
よく推しに殺人鬼の役をやってほしいなどと思っていたけれど、ナチス的なものはどうも苦手らしい。
というか、中途半端に同情できてしまうから見ていて苦しい。
当時のドイツなんか敗戦国だし経済死んでるしで右も左も絶望しかない。
そんな中で何言ってんだか理解できないけれど、それっぽいことを強い口調で話せて、パフォーマンスに長けた人間が出てきたら従いたくなってしまう。
なんせ、自分たちはただ勤勉にやってきたのに敗戦国になってしまったのだ。
自分ではないところに原因を求めたくもなる。
ただ、ルイーゼの父が「前回の選挙まで私たちはドイツ人だった」と言うように、ユダヤ人もドイツ人と等しく苦しんでいることから目を背けてしまった。
名士にユダヤ人が多いのは偶然当時の努力家にユダヤ人が多かったとかそんなことだろう。
根拠はないからただの妄言であるが。
ドイツの富を独占していると言うのであれば、勤勉なドイツ人らしく自身の実力でその座を奪えばいい。
今までユダヤ人から恩恵を受けていたこともあったはずなのに、図々しいにもほどがある。
特別、人種にこだわりのない私が異端なのかもしれないが、ドイツに住んでドイツに税を納めているのなら、どこの血だろうが関係ないだろう。
純血大好きマンは本当に恐ろしい。
日本にもお隣の国が大嫌いな人が少なくないので、他人事には到底思えない。
ちなみに「アーリア人」について軽く調べたら、日本人は「名誉アーリア人」にあたるそうだ。
なんだそりゃ。
枢軸として協力関係にあったからだろうが、そんな簡単にアーリア人の意味を変えられるならこのユダヤ人迫害はなんだったのだろう。
日本人よりよっぽどアーリア人に近いのではないだろうか(根拠もへったくれもない)。
お目当ての話から随分遠ざかってしまったが、なんやかんやで非常にしんどい思いを抱え、初日公演後2日間寝込んでしまった。
お目当ての素晴らしい演技を観られたことは大変嬉しいが、これで戦争ものの舞台を4作観たことになり、もう勘弁である。
特に、今までの軍人がメインの作品とは違い、一般人に焦点を当てたのが辛かった。
国のため、愛する人のためという大義名分を背負うことなく、戦う術もなく、ただ大きな渦に巻き込まれて覚悟を背負う間もなく死んでいく。
国家も血も人種も、人を不幸にしかできないそんな大義名分なんかくたばっちまえ。
次は是非、推しにもお目当てにも大変ハッピーな作品に出てほしい。
最後に。
コロナで騒がしいこのご時世に上演していただいたこと、とても感謝している。
最後に観劇してから約半年。
チケットが次々に白紙になり、生きている心地がしなかった。
舞台は私の生きがいで、半年先のチケットを買うことによって半年分の寿命を得ているも同然だった。
毎日死に場所を求めるような過ごし方をして、そんな中で発表されたお目当ての舞台である。
戦争ものだろうがなんだろうが観に行きたいという思いしかなかった。
劇中、ドイツ人の厳格な女教師とユダヤ人の謎の女性を兼任する役者さんがいた。
プログラムを読むまで、一人二役であることに気づかなかった。
舞台上ではなんにでもなれる。
日本人がドイツ人を演じ、ユダヤ人を演じ。
同じ舞台で違う人種を演じることもできる。
これこそが舞台だ。
映像作品では難しい。
もちろん例外はあるが、その人種に顔つきが似た役者や、海外の役者をキャスティングするのが一般的だろう。
もしかしたら、ヘア・スプレーのように特定人種を日本人が演じられなくなる日が来るのかもしれない。
しかし、それでも舞台には無限の可能性があるし、舞台の必要性は決して消えない。
どうかまた、舞台が私の日常に寄り添う日が戻りますように。